昨日書いた記事はコメントには愚痴と書きましたが、やはり大事なモンダイだと思ったので、内容を分割して新しいタイトルを付けた。わたしとしてはささやかな問題提起である。自分のことなのだから、自分で言わなければしかたがない。
記事を書きながらふと思った。こんな気持ちをいつか味わったことがあるな。教室に確かに存在する人がいるのに、いないようにふるまう。小学校のころのシカトである。そのときわたしは透明人間になってしまっていた。大人になってもたまにそんなふるまいをする人がいる。でも、こんなに公然と、公器である商業雑誌で、こんな子供じみたシカトをされるとは思わなかった。
ところで、松下育男さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/fampine
を愛読しているが、彼の存在感のなさは実に印象的だ。床屋でも店の中でも、人々は彼を素通りしてしまう。駅のたくさんある出入り口で、道に迷って途方にくれる彼の気持ちがわかる。わたしもそんな体験がよくあるのだ。でもこんなふうにリアルに仔細に、その存在の希薄を表現できるのはこの詩人しかいない。彼のブログの特に初めの時期の文章に引き込まれた。毎日作品をアップして読解をしてくださっている詩人石原吉郎は、わたしも若いころ愛読した。でもあまり無理をしてからだを悪くされるとたいへん。毎日でなくてもいいから、ゆっくりのんびり続けてください。
その松下さんが、ご自身の詩をブログにアップされた。まだ一読だが、やさしい言葉で存在の本質をやわらくつかみとってくる方法は、だれにもまねできない。詩の書き方自体が、この詩人そのものを体現しているのだ。
松下さんは長い沈黙を経て、昨年「生き事」という詩誌を始められて、話題になった。わたしも読んでみたいと思っていたのだが、その中に掲載されている「火山」がブログにアップされていたのを読んだ。2006年2月4日の記事である。
松下さんの最初の妻で評論家の松下千里さんが自死するまでを書かれた詩である。二人が住む家から見える「火山」とは、詩、文学へのあこがれであると同時に、若い二人の生への強い希求であったろうか。彼女は創作につまづき、編集者が自分の悪口を言っている、みんなに嫌われている、という妄想に苦しんでいたようだ。夫が眠っている間に同じ家の中で死んでしまうようなことは、残されたものを一生苦しめる。その後松下さんは再婚し、幸せな家庭をもった。それでも彼はいまだに生きたここちがなく、この世で影を薄くうすくしているようなのだ。
松下千里評論集『生成する「非在」』を古本屋で手に入れたのは20年ぐらい前だった。もう一度読みたいが書棚に見つからない。あるいは詩の私立図書館「まほろば」へ、ほかの詩集といっしょに送ってしまったかもしれない。若くして評論集を持った才能ある女性が、自分の書く場所を見つけられずに苦しみ、あげくに死を選んでしまう。ほかに書いていく方法はあったはずなのに、若いということはそのことに思い至らない。すべてが閉ざされてしまったように思いつめ、愛する人すら救いにならなかったのだ。
苦しむことのできる才能というものがある。どんなに苦しんで身を細らせても、作品はそのたびに深みと厚みを加えていく人だ。結果的に彼女はその力を獲得できなかったのだ。年齢を重ねるということは、それだけ感性が鈍るが、苦しみも少なくなる。先に道は一本しかないのではない。自分なりの道は無数に作り出すことができる。それは、長く苦しんだあげくに生きる方法をつかみとったからだ。松下千里の評論集を読んだ一人として、彼女の才能を深く惜しむ。そして、松下育男さんには、その存在感をありのままに、詩を書いていってほしいと願わずにはいられない。
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